酒の安売りが大成功
〜変革へ“戦争”仕掛ける〜
1962年12月、私は二十四歳、妻は二十一歳で結婚しました。同時に店に入り、いいものを売りたい、まじめな商売をしたい、とにかく変革させなければと、がむしゃらに働きました。
私は仕入れ担当です。もともと鮮魚商ですから、魚市場に行く権利はありましたが、青果物はそのころまだ上越の市場に入れず、毎晩トラックを運転して長野県の産地に仕入れに行きました。
妻は経理担当でした。63年に長女が生まれましたが、子守りを雇うゆとりもまだなくて、長女がはい回るようになってからは、事務の部屋の真ん中の柱と長女を三、四メートルのひもで結び、妻は子どもを見ながら事務を執っていたほどです。
そんな日常で、まさしく「戦い」ですね。戦争です。変革には必ず抵抗がありました。
一つは価格の問題です。私は酒類問屋にいたので、酒の売値に矛盾を感じていました。当時、小売店か問屋から二級酒を一箱買うと、問屋はリベートとして一、二本付けていました。それを定価で売るわけですから、消費者にとっては高く買わされているわけです。
これをなんとかしたいと、酒販売の監督官庁である高田税務署に交渉に行きました。しかし税務署ではらちが開かず、単身、関東信越国税局に談判に行きました。説明すると、「それならリベート分はお客さんに還元してください」とお墨付きを得ました。
それで、67年ごろ、酒の安売りを始めました。たぶん日本で最初だと思います。いやー、店の前にお客様が列をつくりました。大成功です。ところが定価販売する市内の小売店から反発がきました。問屋さんはうちと取引停止です。商品は切らせないのですぐ取引先を長野県に求めました。酒小売店組合の青年部の人たちがきて、量り売りの商品を「一グラムください」なんて、少量買いの嫌がらせもされました。
そのうち福島県の醸造元で安く売ってくれるところを見つけ、それを売り出しました。組合側も対抗し県外酒を安売りしました。この”戦争”は69年に新聞記事になりました。先のことになりますが、お互いに消耗して争いは自然自然となくなっていきました。
草創期でもう一つ私が取り組んだのは豚肉です。うちは、肉は当初、小売店から仕入れていました。私はより良いものを入れたかったので、近くの農協から豚を直接仕入れ、食肉処理場で解体して枝肉で店に持ってきて、私と社員で切り分けて売りました。
そうしたら今度は肉屋さんが、イチコは肉を安売りするといって、書き入れ時の年末に食肉処理場から締め出されました。これはなんとか話し合いで解決しましたが、次に経済連が「うちを通さなければ豚を売らない」と言ってきたのです。
経済連を通すと、良いものもそうでないものも平均的に仕入れなけばなりません。私はできるだけいい豚をもらおうと、雨がっぱを着て、食肉処理場に行きました。解体を手伝うことで、どういうものがいい肉か勉強になりました。これが後に「イチコもち豚」を見つけるのに役に立ちました。