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わが道 新経営語り帳

会長 スーパーに業態変更する前、1960年前後の竹内商店。間口4間半(約8.1m)、奥行き10間(約18㍍)ほどの店だった。右は先代の妻・君江さん=上越市本町1

直江津店舗写真

妻・美喜子さんが結婚前の1960年、20歳のとき長野県のスーパーに奉公中、父の先代社長にあてた手紙。現金正札販売、広告、仕入れ合理化を具申している。
 



 生まれは東京です。空襲で高田の女親の実家に疎開しました。終戦間際に父親が大けがをしてここに居付きました。父はミシン屋を始め、後に電気店に変わりました。いまは兄が継いでいます。
 私は三男の「いらんおじ」です。中学の同級生からは、何で普通課の高校に行かなかったの、と言われましたが、兄と比べられるのがいやで商業高校に行きました。それが人生の分かれ目でしたね。この商売や妻に巡り合ったわけですから。
 学校を出て、市内の酒類問屋に入りました。事務職でしたが何でもやりました。自分で向かっていきました。アイデアを出してね。
 例えば、当時はメーカーから問屋の倉庫までがメーカーの運賃。駅まで取りに行き運賃分をまけてもらいました。お盆には問屋は休みで小売店にビールがなくなります。私は内勤でしたが駅に貨車が着くと小売店のため配達をしました。そんなところを見て社長は、二十歳そこそこの私にほとんど任せてくれました。厳しかったですが情の厚い人でした。しかし社長は若くして亡くなられ、私も気が抜け、心の張りを失ってしまいました。
 そんなころの1962年2月、お見合いでうちの(妻で取締役の美喜子さん)と出会います。イチコの先代の娘です。縁組が決まったことで、結婚前の3ヶ月、長野市のスーパーに働きに行きました。今思うと、素人からこの道に入ったからよかったんだと思います。何も商品に対する知識がないでしょう。ものすごく疑問が出てくるんです。
 長野の店では、鮮度が落ちて色が真っ赤になったイカを売っていました。素人から見てもこんなもの売っていいのかなぁと。当時はサッカリンで甘くした水に着色料を入れたジュースや、本当のしょうゆを水で薄めカラメルで色を付けたしょうゆなんかも見ました。それで、あくまでもいいものを売りたい、うそのない完全なものを売りたい、まじめな商売をしたいと、強く心に植え付けられました。
 ところでイチコがスーパーに業態変更したのは私が入る一年前です。妻によると、先代は非常に迷いながらも、妻が長野県中野市のスーパーで奉公して得た情報や、近隣の店がスーパーに変わる気配が見えたことから踏み切ったようです。妻が結婚前の二十歳のとき、先代にあてた手紙があります。後で読み、しっかりしていてびっくりしました。
 スーパー開業にあたって、先代夫婦は、五百軒のお得意さんを一軒一軒、説明して回ったそうです。それまで、お客さんは帳面を持って店に買いにきました。月末に集金する掛け売りです。配達もしていました。それが現金販売の配達なしですから、理解した方もいれば、「うちを信用しないのか」と怒った方もいたそうです。
 61年12月、当時はセルフサービスの店と言いましたが、スーパー「イチコ」がオープンしました。鮮魚と惣菜は対面でしたが、多くの商品は値段を付け棚に並べられ、カゴに入れレジで精算しました。予想以上の売り上げと客数に先代も妻もほっと胸をなで下ろしたと聞いています。。

(株式会社一小イチコ代表取締役 竹内寿)